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コラム おしゃべりコーナー - バックナンバー  

No.106 横浜と私

ichi [2004/05/07]

先日、中学校時代のクラス会の下打ち合わせに数人の同級生が集まった。話は自然に子供の頃の横浜に及んだ。考えてみると私も終戦前から横浜に住んでいるので、半世紀以上にわたって横浜の変遷を見てきたわけだ。昭和20年の横浜大空襲で市の中心部が焼けて、夜になっても空があかあかと燃えていた。この光景を保土ヶ谷の丘の上から見たのを鮮明に覚えている。あの時が新しい横浜復興の原点なのかもしれない。今から思うと終戦の食糧難と焼け野原の時代にもかかわらず、すぐに小学校で授業が始まったのはすばらしい。この教育の力が戦後の日本の復興につながったのだと実感する。

昔の仲間と童心帰って子供の時の話をすると話題はつきない。当時保土ヶ谷から間門まで直通の市電がはしっていた。これに乗って夏は海水浴にいったものだ。今の三渓園は波打ち際に近くて、その崖の下は海水浴場だった。横浜に自然の海岸線が残されていた時代がセピア色でよみがえってくる。
春先にはホンチ遊びが盛んだった。これは横浜独特の遊びだったらしい。生け垣で見つけた「くも(通称ほんち)」を戦わせる遊びだ。くもといっても頭は漆黒、お尻は金色に輝く風格のあるやつだ。季節になるとホンチを入れる箱を自分達で作って生け垣をまわり、強そうなやつをつかまえて、日溜まりで友達のホンチとけんかさせたものだ。
当時友だちから借りて読んだ手塚 治虫描く未来都市のイメージは、実生活とかけ離れた空想の世界だった。今MM21の景観を見ると半世紀で夢の都市が実現している感がある。新しいものに挑戦する人間のたくましさはいつも意欲的だ。

日本の建築物は長年に亘って高さ制限が設けられており、31メートルを越えることは許されなかった。ちなみに31メートルは明治時代の法律にある百尺をメートルに換算した物です。昭和40年頃になって耐震設計の技術も進歩し、規制が変わり敷地の広い所では高層ビルの建設が可能となった。バブル経済期にはランドマークタワーをはじめ横浜市内でも高層ビル群が建ち並び市の景観を一新した。まさに21世紀の未来都市の出現である。規制緩和など規則の変更はすぐには庶民生活には現れてこないと思いがちであるが、法律の改正が目に見えて実感される例である。

 我が町保土ヶ谷は市街地を離れたごく一般的な郊外の住宅地であろう。ここでも、子供の頃は草むらでうるさいほど鳴いていた虫の音が近年かぼそくなり、あんなにたくさん飛んでいたトンボが滅多に見られなくなってしまった。
 かわって昔は見られなかったものが身近で見られるようになった。秋から冬にかけて女郎蜘蛛が我が家のまわり至る所で見られる。よく観察するとお尻が赤みがかった存在感のある立派な蜘蛛だ。子供の時には森のなかでしか見られなかった様な気がする。
 最近は小鳥達が住宅地まで接近してきている。めじろ、うぐいす、おなが、ひよどり等が庭の花実をめざしてやってくる。市内の開発が進み小鳥たちの安住の地が少なくなり、住宅地まで生活圏を広げざるを得なくなった結果だと推測している。
 バブルがはじけて森林伐採もこれで終わりかと思ったら、規制緩和の影響で住宅地の開発がまた進んできた。横浜はもともと丘陵地帯である。野毛山、掃部山、根岸台、山手などの地名からもこの事はわかる。低い丘陵はバブル期に宅地造成されたが、急な斜面は開発から取り残され市内に自然の緑が残っていた。所々に残ったこれら斜面の緑は一時期それなりに街の景観にいろどりを添えていた。ところが規制緩和によってこの丘陵地の雑木を切り倒し急斜面にへばりつくようにマンションが建設され始めた。近所にもこのようにして開発されたマンションが随所にみられる。残されていた緑が減る一方なので、深山の小鳥たちは仕方なく、人間と一緒に生活するようになってきているようだ。かわいい小鳥たちのために、我が家でも庭先にえさ箱でも置いてやろうかと思っている。

「…・昔し 思えば 苫屋の 煙り ちらり ほらりと 立てりし ところ 今は ももぶね ももちぶね 泊まる所ぞ 見よや…・」これは僕らが子供の頃ならった横浜市歌の一節で、戦後復興して横浜港が日本一になった頃の歌と記憶している。横浜の小中学校では今でもこの古文体の歌を習ってるらしい。

 約80年前に関東大震災、60年前に大空襲と壊滅的な状態から立ち上がって復興し、更に開発が続けられている横浜。私の好きな街「よこはま」はこれからどんな風に発展していくのだろう。
先日、中学校時代のクラス会の下打ち合わせに数人の同級生が集まった。話は自然に子供の頃の横浜に及んだ。考えてみると私も終戦前から横浜に住んでいるので、半世紀以上にわたって横浜の変遷を見てきたわけだ。昭和20年の横浜大空襲で市の中心部が焼けて、夜になっても空があかあかと燃えていた。この光景を保土ヶ谷の丘の上から見たのを鮮明に覚えている。あの時が新しい横浜復興の原点なのかもしれない。今から思うと終戦の食糧難と焼け野原の時代にもかかわらず、すぐに小学校で授業が始まったのはすばらしい。この教育の力が戦後の日本の復興につながったのだと実感する。

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