第100回 漢字というハードル
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東欧のある国から来た学習者に「叔母さんが使っていた」50年前の日本語のテキストを見せてもらった。薄い紙に、いかにも古色蒼然とした活字が並ぶ地味なものだが、裏表紙に変体仮名の書が装丁されているのが、いかにも異国趣味を感じさせて印象的だった。
東西冷戦の枠組みに組み込まれた中で、おそらくは息苦しい日々を送っていただろうその女性はどんな気持ちでこのテキストを見ていたのだろう。東洋の国への憧れだったのか、閉塞状況からのひと時の脱出の夢想だったのか・・・。
その時私が連想したのは江戸時代末期の『蘭学事始』だった。彼らも鎖国の中、外から射すわずかな光、新しい知識への渇望感から、寝食を忘れてオランダ語の医学書を翻訳したのだった。
そして今、50年前のテキストを手に、日本へやってきた彼は新しいテキストで熱心に日本語を学習中であるが、化学関係の研究者の彼に、仕事で日本語が必要なわけではなく、生活のパートナーとの会話は英語ですませ、日常会話さへできれば支障はないのだ。
初級テキストを修了し、日常会話は不自由なくこなす彼に立ちはだかるのは“漢字”。文学、浮世絵などに関心を持ち、学習を希望しているが、日本の企業で「ロボットのように働かされている」という彼に、漢字を粛々と覚えていく根気と時間はないようだ。
「ドイツで暮らしていた時はドイツ人とまちがえられるくらいドイツ語が流暢だった」という彼の、日本語だってマスターできないわけはない・・・という自負心だけでは、“漢字”の関門はあまりにもハードルが高い。
地球学校には最近、そんな学習者が増えているように感じられる。もちろん縁があって、日本にやってきて、日本の文化に関心をもってくれる彼らは貴重な存在だ。なんとか気持ちに沿ったレッスンがしたいものだと頭を悩ます今日この頃だ。
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