第92回 日本語の危機・変化
憂思
「日本語の危機」等と言われて久しいが、その中にはいろいろな現象が見られる。
まず、「敬語が正しく使えない」。これは本当に耳の痛い指摘だと思う。われわれ日本語教師にしても、実際には正しく使えなくなっているように思う。場面によって変わってくる敬語の使い方。それと同時に言葉はどんどん変化してくるため、どこまでを許容範囲にするかという問題も出てくる。外国人の日本語学習者が「正しい日本語の敬語を教えてほしい」と言う。教科書によっても違うし、人に聞いても違うし、戸惑う外国人が多いのはうなづける。言語学のある専門家は「家庭内における言葉の弱体化」を指摘している。別に敬語に限ったことではないが、家庭内の言葉は敬語の原点でもあると思う。親子兄弟が周囲の人と話をするときに敬語を使っていれば、どの場面、どういう対象に使う言葉かなど自然に身についてくると思われる。また前述の専門家は「近代化・都市化した社会は“言葉を上手に使う”という技術を磨き育てる機会と場そのものをどんどん消滅させている。」と述べている。確かにわれわれの周囲は忙しく非人間化された社会が広がっているように思われる。どんどん変化する社会において、せめて、最低限の尊敬、謙譲の言葉を使いたいし、敬語を上手に使える心を持つと言うことは美しい人間関係を築く根本であるようにも思う。
次に「漢字が書けない・間違いが多い」など、ワープロの発達と同時に起こってきたことと思われる。が、原因はそれだけではないと思われる。先日も文部科学省所管の財団法人「日本漢字能力検定協会」が実施した漢字能力調査の結果が新聞に出ていたが、その実態は「嘆かわしい」と言うだけではすまないと思う。恥ずかしながら、書けないということは私自身にも当てはまる。読めても書けないのである。自分の努力ももちろん必要であるのは論を待たない。が、活字文化の担い手であるマスコミにも責任の一端があるように思う。例えば野球記事の中でタイガースが頑張っているさまを「虎軍奮闘」と書いたりしている。スポーツ紙においては多くの例があるが、これは間違った字を子供たちに植えつけることになりかねない。確かに上手な当て字で、なるほどと感心させられることもあるが、これは違うのだということを意識していないと、いつの間にか目から入って覚えてしまうことになる。
そして現在選挙運動が始まり候補者の名をひらがなで書くことが多くなっていることを見ると、識字率の高い日本でなぜ今ひらがなで書かなければならないのであろうかと疑問に感じる。平成の大合併で誕生した市の名前も然り。
ある新聞記者は「漢字狩りは語彙の貧困を招き、語彙の貧困は思考力の低下を招く。今に子供たちは古典どころか、祖父母の文章さえ読めない時代になってしまうかも」と危惧しているが、私も同感である。
言葉は変化するもの、時代とともに変化していずれその変化したものが大勢を占めるようになるのであろう。どこまでが危機で、どこまでが進歩であるか、流動的な言葉を「正しい」「正しくない」と決め付けることはできないのであろうか、歴史を待つのみであろうか。ここまで書いて、私はいつの間にかある点に留まり進歩できない人間になったのか、と不安も感じ始めている。
(参照:文芸春秋特別版「言葉の力」)
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