第69回 思案所(トイレ)で、日本語について思案した
「ちょっと、ご不浄へ行ってくるわ。」
そう言ってM先輩は、お茶の途中で席を立った。きょとん?とした20代のコに耳打ちする。
「ご不浄って、トイレのことよ。」
「へぇ〜、そんな言い方があるんですかぁ〜。」
M先輩は30代の女性だが、時折りこんな古き良き日本語を使うのだ。
そういえば、別の飲み会の席では男友達が
「ちょいと、厠(かわや)へ。」
などと言ってトイレに立つこともあった。「ご不浄」に「厠(かわや)」かぁ。ふむふむ、トイレを指す日本語は、改めて数えてみると、実にバラエティ豊かである。他にも「雪隠(せっちん)」、「手水場(ちょうずば)」「憚り(はばかり)」「思案所」。普段使わないものの、昭和40年代生まれの私だって聞いたことはある。「思案所」だなんて哲学的でちょっと素敵。現在、一般的な表現は「お手洗い」「便所」「化粧室」といったところだろうか。
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そんなことを気にしながら、デパートをぶらぶらしていたら、トイレ案内の表示が目に入ってきた。「化粧室」の表示である。文字の横には見慣れた赤と黒の人型のイラスト。言うまでもなく、赤が婦人、黒が紳士だ。でも、まてよ。男の人は「化粧室はどこですか?」などと言ったりはしない。それなのに表示は男女まとめて「化粧室」。よ〜く考えてみると、なんだか少し変な気がする。
そういや、日本語だけではなく英語の「パウダールーム」も「化粧室」。パウダーは粉おしろいの意味を持つから、直訳すると「粉おしろい部屋」といったところだが、「トイレ」を意味する言葉である。ただし、「パウダールーム」は女性用のみに使うのだとか。スペイン語も同様、トイレを言い表す「トカドル」は「化粧台」の意味も併せ持つ。
確かに日本も欧米も、トイレには化粧直しのスペースが併設されていたりして、化粧室と名乗るにふさわしい。それでは、他の国ではどうなのだろう?
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「インドでは、トイレを指す言葉はひとつです。」
インド人の日本語学習者に訊ねた答えがコレ。余談だがインドには公用語のヒンディー語の他に、英語をはじめとする準公用語がなんと17もある。地域独自の言語が存在するのだ。地域独自といっても、せいぜい日本の関東と関西の言葉の違い程度でしょ?と、たかをくくったら大間違い!全く異なる言語で、インド人同士でもわからないのだそう。
地域其々の言語に「トイレ」を指す言葉があるのだが、日本の「化粧室」「便所」といったバリエーションはないとのこと。さらにインド人に、「現在使われていなくて昔は使っていた表現ってある?」と聞いてみたが、それも特にないらしい。いたってシンプルである。
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さて、トイレでカルチャーショックを受ける国、と言えば?ずばり中国ではなかろうか。旅行者向けのトイレは日本と変わらないようだが、一般に噂されているのが「ドアなし公衆トイレ」。聞いただけでも、腰がひけるというか、お尻がひけるというか。
そんなトイレ事情の中国で、トイレを指す言葉は「厠所」と「洗手間」。おお!まさに日本語の「厠(かわや)」と「お手洗い」そのもの!前者が一般的で、後者はデパートなどで使う、ちょっと上品なニュアンスなのだそう。どちらも男女兼用の言葉だというから、日本の「化粧室」とは意味が異なる。近い将来、中国のトイレ文化が変化して、化粧直しに適したスペースと化したら、「化粧」寄りの新しい言い回しが誕生するかもしれないが。
ちなみに「厠(かわや)」を辞書でひくと「厠は川屋、つまり川の上に作った水洗便所。便所の老人語」とある。日本ではいまや英語圏の「トイレ」にすっかり押され、老人語とまで書かれてしまった気の毒な「厠(かわや)」。一方、中国の「厠所」は、いまなお堂々現役の言葉として健在だ。
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インド、中国に引き続き、タイ語もチラリ覗いてみた。タイ語のトイレは「ホンナァーム」。「水の部屋」という意味で、「浴室」の意味も兼ねている。英語の「バスルーム」と同じだ。浴室がついていようがいまいが、「ホンナァーム」。英語では「トイレット」よりも「バスルーム」の方が婉曲表現で、食事中は「バスルーム」を選んで使うようだが、タイ語の「ホンナァーム」はトイレ(または浴室)であり、特に婉曲表現というわけではない。
タイ語の婉曲表現といえば、興味深い発見があった。それは山で用いる言い回しについてである。トイレの設置していない山で、もよおしてしまった場合、タイで女性は「お花摘みに行く」と言い、男性は「うさぎ狩りに行く」と表現するのだとか。
な、なんと、これは日本と同じである。山登りをされる方はご存知ではなかろうか?日本でも山でトイレに行きたくなってしまったら、女性は「お花摘みに行く」と言い、男性は「雉討ちに行く」と言うのが一般的だ。男性の雉討ち(日本)とうさぎ狩り(タイ)の違いについては、タイ人曰く「タイに雉はいないから、うさぎ狩りなのでは?」
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婉曲表現といえば、フランス語では「トイレ」を「プチ コワン」とも表現する。「ちょっとした片隅」という意味だ。なんだか上品な感じがして好感を持ってしまう。ちょうど、日本語のトイレを指す表現のひとつ、「憚り(はばかり)」にも似た印象を受ける。
憚る(はばかる)=遠慮する、に由来する「憚り(はばかり)」といい、冒頭に記した「ご不浄」といい、トイレを意味する日本語には、感情的な意味合いが込められた表現が目立つ。古より大切にしてきた日本人の美学というか、あけっぴろげではない奥ゆかしさを感じてしまう。
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最近の日本のトイレ事情は急カーブで向上した。横浜は公衆トイレ発祥の地とも称されているが、横浜の駅のトイレもデパート並みだ。そのピッカピカの横浜のトイレで、最近がっくり肩を落としてしまう会話を耳にした。
レベルアップしたトイレにて、化粧直しに余念のない二人組の女子高生。そのうちの一人が、鏡の中の友達に向って一言。「私、おしっこしてくるね〜。」やれやれ。言葉の方はすっかりレベルダウンしているようだ。
日本語の「トイレ」の呼称が多いのは、いつの世もトイレを直接的に表現するのをためらう日本人の気持ちが作用しているからではなかろうか。奥ゆかしさから生まれた、トイレの様々な言い回し。かなり時代錯誤ではあるが、M先輩の「ご不浄へ行ってくるわ」という発言は、そんな日本文化の香りがする。ふと、今度使ってみようかな、などと思った。
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