第62回 日本語教育?日本語習得?
日本語教師として勉強している中で「心に響いた」ことを整理したいと思います。ただし、これは現時点のことですので、今後も変化(進化?)することは充分考えられます。
★同化ストラテジー:「教授者は学習者を同化させている」
ハッとさせられるこの言葉について、どう考えたらいいか。他人(学習者)を自分(日本語教授者)の規範に同化させると、どうなるか。日本人に近い状態にはなるかもしれないが、100%はならないし、無理だろう。しかし、外部からの圧力によって多少は同化しているものである。それは、まわりに認められたいからか、それが本当にいいと感じているからか…それにはどんな意味があるのだろうか。
田中望の次の言葉を意識しておくことは重要である。「日本語を教えることは結局、日本への同化を強いることかもしれない」「日本社会に組み入れられ、子どもは日本文化 の中で育っていく。日本語さえうまくなれば何とかなると思っているが、読み書きは難しい」「アジアから来たお嫁さんを生きやすくするのは日本語教育ではなく周囲の日本人と社会が変わることではないか」…。
たとえば、文章を書くことを教えるよりも前に、文章を書く必然性をつくることが重要だということ。文章を書く必然性をつくるには、社会的に関わる場を作るということだと思う。語彙や文法を教えるより前に重要なことがあるということではないだろうか。
★学習ストラテジー
教師が「必要だ」「望ましい」と考える学習方法について指導すると、学習者はあまり喜ばないかもしれない。それは、なぜか。個々に持っている学習スタイルと別のものを持ってこられるとイタイからである。大人の学習者は「教え直される」のが嫌なものなのだ。空白のところに入れるのではないからイタイのである。そのときにどうするか。イタイからやめるか、イタクても必要だと思うから説得するか…。どっちがいい、悪いの問題ではないだろう。充分な説明をしたうえで、相手がすべてを理解したうえで何を選択するか、ではないかと思っている。これが地球学校の「みんな違ってみんないい」なのではないか。
山田ズーニー『伝わる・揺さぶる!文章を書く』(PHP新書)の232〜236ページの文章にも、これらと関係して納得させられるものがあった。
★3つのモード「教授」「学習」「自然習得」
伝統的な日本語教育は「教授」のみである。言葉でいうと、日本語教育より「日本語習得」のほうが理想的である。「教授」も重要な要素ではあるが、「学習」「自然習得」という視点も必ず入れるべきである。量で考えると「教授」の時間は限られている。だからこそ、「学習」がどのように行なわれているのか、方法だけでなく学習者の考えていることや感じていることも教師は考えに入れるべきである。学習の量よりも「自然習得」のほうが、量としては考えられないぐらい多いのは容易に推測できる。これらを考えるのも全部教師の仕事である。
古い教師は「教える人」という概念が強いが、現在の教師は「習得のマネージャー」にならなくてはいけない。コースディレクターである。教えるだけはなく、アレンジについても考える。自然習得を促す努力も重要である。いろいろな場所に行くことを前提にする、実際使用のアクティビティ、本当のコミュニケーションの場面を入れる、この視点を忘れてはならない。
地球学校は、これらのことが考えられているところだと実感している。そのために多くのイベントがある。学習者が、遠足やスポーツ、料理や「しゃべりば」に参加することは、まさに自然習得を促すものだろう。
★透明性:「日本語を勉強しているの?」「日本人と話してるの?」
まず、パソコン教室に通う子供と大人の会話について考えてみたい。
A 大人:何してるの?
子供:コンピューターしてるの
B 大人:何してるの?
子供:絵、描いてるの
Aはコンピューターという道具が透明な存在ではないが、Bでは透明な存在になっていると言える。道具は使い勝手が悪いと透明にならない。設定はお節介で不愉快なものだからだ。道具が見えすぎるのは良くない。パソコンは透明になる必要がある。
日本語教育の場面において、日本語は透明になっているだろうか。
★教室内と教室外
あんなことやこんなことをいろいろ考えていると、じゃあ「教室内」でしかできないこと、日本語教師が行なうべきことって何よ!と思う。教室内活動の意義は、教室には必要なことが整理されてあること、コントロールされていることにあるようだ。重要なことは難易度を徐々に高めること。相手のレベル、目的に応じてステップを考えること。確かにそうだ。しかし、それでいて、これが最も難しい。
例えば初級というレベルはわかっていても、もっと細かいレベルについて把握するのは難しい。初級であっても難しい二字熟語を知っていたりする。それは大人だからである。漢字圏の人であれば、なおさらだろう。非漢字圏の人であっても、大人なのだから政治や経済について話したい人もいるだろう。その場合、初級の教科書の語彙は当てはまらないものが多いに違いない。テキストを中心にレベルを把握すると大変なことになる。学習者が目的を達成するまでに、どれだけ細かいステップを考えられるか、それも相手によってアレンジできるか、これが重要なのかもしれない。
★「自分が知らない」ということに留意しないと学習は止まる
留意とは「気がつく」こと。モニターすること。これがなければ先へ進めない。例えば、発音が上手にならないのは自分の発音をモニターできないからだ。しかし、留意するのは難しい。テープに録音する、実際に話している場面を録画する、教師以外の日本人の意見を知る、などなど方法はいろいろあるだろう。それもどれが正しいのではなく、人によって、時と場合によって、何に影響されて留意できるのかは異なるだろう。だからこそ、留意できるように、さまざまな方法を試してみたほうがいいように思っている。
現時点では以上です。これらはJ.V.ネウストプニー先生の授業でのお話から感銘を受けたものが多い。今後は彼の著書にも目を通してみたい。
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